龍馬さんと原爆(長崎天草旅行2日目その1)
旅行2日目。今日は長崎中心地から北側を回ります。
まずは路面電車にのり、新大工町電停へ。
本当にこの街は路面電車と街が共存してますね。
電停の近くに上野彦馬宅跡の碑が残されてます。
勿論普通の民家が建っているですが、
すぐ隣にはこんなモニュメントが。
ここから亀山社中の跡に向かいます。
ただし、亀山社中は敢えて長崎港を見渡せる高台にある為、かなり登らされます。
こんなところをずっと行くと、
龍馬のぶーつ像があって...おやおや、先客が....。
電停から歩くこと20分弱、その奥にあるのが、日本最初の商社「亀山社中」があります。
2009年から当時の建物に限りなく近い形で復元、再オープンをかけたようです。
母屋は10畳、8畳、3畳の部屋と土間と中2階。
そこに入れ替わりがあるとは言え亀山社中のメンバー20人がアジトにするにはかなりの狭さ。
でもここをアジトにしていたのは約3年ぐらいなのかな?。
まぁ龍馬自身31年しか生きてなかったんだからね。
龍馬人気で朝一番にもかかわらず、かなりお客さんが来ていました。
福山雅治は来館してないようでしたが、その他の「龍馬伝」メンバーの多くが来館していたようですよ(大泉洋さんとか、ピエール瀧さんとか)。
亀山社中からさらに登ると、風頭山の山頂。
この日の長崎の最高気温は37度のどピーカン。本当に暑い!。
この旅行中何本ペットボトル類を購入したことだか!。こまめな水分補給で熱中症にならずにすみましたが。
山頂からは稲佐山と長崎湾が一望。
長崎の客船ターミナルにはクルーズ客船、コスタ・ビクトリア入港していました。
長崎の客船ターミナルは東京港や横浜港大さん橋と異なり、10万トン強の超大型クルーズ客船も入港可能。
横浜港大さん橋に時々クルーズ客船と見に行く一人としてはうらやましい限り。
海援隊旗を棚引かせながら長崎港を見つめる龍馬さんの像、あと上野彦馬のお墓も風頭山の山頂にあります。
登ってきた坂道を(汗だくになりながら)降りて、路面電車に乗って、さらに北上、松山町電停へ。
電停の目の前に平和公園があります。
1945年(昭和20年)8月9日午前11時02分に世界二例目の原子爆弾が投下されました。
(たった一発の爆弾で)長崎市の人口24万人(推定)のうち死者73884人、負傷者74909人、建物は約36%が全焼しました。長崎は山が多く、爆風などの影響も少ないのにもかかわらず全人口の三分の一が死んでしまったわけですから、どれだけの威力だったか?と思うと恐ろしいですね。
奇しくも同じ8月の訪問。
「今日と同様に暑い日だったのかな.....」などと思いながら公園内に入りました(後にわかったことですが、当日は曇りだったそうです)。
爆心地のすぐ隣にある平和公園がある丘は原爆投下まで刑務所だったそうです。
原爆投下により周囲をはりめぐらされていた塀は基礎を残して倒壊、受刑者や職員は全員即死だったそうです。
平和公園のシンボルとも言える平和祈念像は原爆投下十周年の前日に除幕。
右手は原爆の脅威、左手は世界平和、閉じたまぶたは犠牲者の冥福を祈っているそうです。
間近で見てみると、思いの外やさしい顔立ちをしているんですね。
行くまで知らなかったのは噴水や平和祈念像の他に世界各国から贈られた平和を象徴する15個のモニュメントもあったりします。
(後で調べたら、なんとアメリカのセントポール市からも寄贈されてます)
すぐ近くには原爆資料館があります。
もともと1955年に長崎国際文化会館にあった原爆資料室が前身で1996年に現在の資料館が出来上がったそうで。
ですんで、施設も新しいです。
入ってすぐに実際に被爆した建物が移築されて展示されます。
その他にも長崎に投下された原子爆弾「ファットマン」の模型、熱線による被害を受けた「証拠」が展示。
小学生の頃、長崎や広島に関する資料は随分読みましたが、本物を見せ付けられると、そのショックはかなり違いますな。
最後に展示されているのは「ナガサキ」後の核兵器の歴史。
核兵器の実戦使用は現時点では長崎が最後ですが、そのあとの68年間で実施された核実験の数、歴史、現時点での核兵器の数をビジュアルでわかりやすく展示されてます。
正直、コレがかなりインパクトがありました。
やはり、保有数でダントツに多いのが旧ソ連とアメリカ。
冷戦が続いたとは言え、「この二つの国は一体地球をいくつ焼け野原にする気なんだろうか?」とつくづく考えさせられます。
平和資料館から、徒歩数分で見えてくるのが浦上天主堂です。
爆心地から近く、もともとあった天主堂はほぼ原型を留めない状態。
天主堂にいた信徒は全員死亡。
今の建物は昭和34年に建てられた鉄筋コンクリート製。
とにかく大きいんです「コレ全部埋まるんだぁ....」とビックリします。
もともと広島の原爆ドーム同様原爆遺構として旧天主堂を残す話もあったそうですが、禁教迫害時代からの由緒あるところなので新天主堂を別のところに建てることができず、遺構を移設すると言う形、今の天主堂が建てられたそうです。
中は撮影不可だったので、コチラを。
外には被災した像も残されてます。
ちなみに爆心地周辺は「平和町」と言う住所。
戦中の地図には別の地名が書かれていたので、原爆投下後に平和を祈念し、この地名がつけられたんでしょう」。
浦上地区からバス移動で、長崎最後の観光ポイントへ向かいます。
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